学校で教える本当の日本の歴史 ~方丈記~
方丈記は短いので読むのもオススメ!
諸行無常
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
『諸行無常』という言葉は仏教のものだが、移ろいゆく物事に着目したのは仏教よりさらに古く、インド哲学へとさかのぼる。
インド哲学では、この世のほとんどのものが不定で、変わりゆくものであると説く。その一方で、永遠に変わらないものとして「ブラフマン」や「アートマン」などがある。
ブラフマン(梵)
宇宙の根本原理。絶対であり普遍であり、あらゆる存在の「究極的な原因」とされる。
アートマン(我)
個々の人間のもつ、真実の自己や本質。魂とは違い、意識や感情をはぎ取ったあとに残るもの。
一方で、仏教は「永遠に変わらないものなど存在しない(諸行無常)」と説く。
不変たる真の自己(アートマン)を信じているから、「執着」が生まれ、不安や苦しみが生まれる。「真の自己が存在する」という幻想を捨てることで、この苦しみから解放される、という思想である。
仏教の重要な考えとして「縁起」がある。これは、あらゆるものに実体はなく、関係性(縁)だけが存在するという考えである。
方丈記において、この考えは川の水にたとえられている。
「川」という実体は存在するように見えるけれど、川の水は常に入れ替わっており、常に同じ「川」というものは存在しない。川の水という「縁」によって存在するように見えているだけなのだ。
福原京(1180)
されどとかくいふかひなくて、みかどよりはじめ奉りて、大臣公卿ことごとく攝津國難波の京にうつり給ひぬ。
1180年、平清盛の主導で福原(兵庫県)への遷都が行われた。代々京都に住んできた貴族の反発は大きく、平家のうちでも激しい反対にあった。
平清盛の狙いは、自分の拠点であり、海に面した福原を都とすることで日宋貿易の利益を独占することにあったという。
平家が歴史の表舞台に出てくるのは、平清盛の父、平忠盛のころである。
忠盛は瀬戸内海の海賊を討伐し、鳥羽法皇の信頼を勝ち取るが、その一方で貴族たちからは「汚い武士が」と見下されていた。
保元の乱(1156)
その鳥羽法皇が崩御した直後、皇室・貴族・武士を巻き込んだ壮絶な跡目争いが発生する。
「崇徳上皇・藤原頼長が挙兵する」とのデマが流れると、崇徳上皇は夜中に邸宅を脱出。白河北殿に拠点を構え、藤原頼長もこれに合流した。内部で対立していた藤原家も分裂し、朝廷は二つに割れた。
当時貴族の用心棒としての立場しか持たなかった武士は、主人である貴族の分裂に従って争うことになった。
最終的には後白河天皇の側が勝利し、崇徳上皇は罪人として讃岐に流されることとなる。貴族が処刑や流罪となる一方で、武士は次第に「貴族の用心棒」以上の力を持つようになっていく。
崇徳上皇は讃岐に流されたのち、仏典の写経を行い朝廷に贈った。
しかし、「呪いがかけられている」と未開封で送り返されて激怒、自分の指をかみ切り自らの血で「日本国の大魔縁になり、天皇を庶民に、庶民を天皇にする」と経典に呪いをつづった。
この後、庶民(用心棒)であった武士が日本を支配する状態が続くことになる。
平治の乱(1159)
保元の乱では、後白河天皇側についた藤原信西と源義朝・平清盛が勝利した。
しかし、その後の論功行賞で源義朝は不満を抱く。というのも、もともと中央にいた平清盛ばかりが重用され、信西と清盛の結びつきが強くなっていったからだ。
平清盛が熊野詣で京を離れた隙を狙い、藤原信頼・源義朝は後白河上皇と二条天皇を確保。信西は逃亡するも捕らえられて処刑された。
しかし、急いで戻ってきた平清盛が天皇を奪還すると形勢は一転。源義朝は敗走の末に殺され、藤原信頼も処刑された。
この乱の結果、平家のライバルであった源氏と反平家の貴族が一掃され、平家の全盛期が訪れることになる。
このとき源義朝の子である源頼朝は伊豆に流罪となった。のちに平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開くことになる。
四大
四大種の中に、水火風はつねに害をなせど、大地に至りては殊なる變をなさず。
「四大(しだい)」とは、古代インドから伝わった世界観で、万物を構成する四つの元素「地・水・火・風」のことである。
仏教においても、人間の肉体は四大から構成されており、死ぬと四大に分解されて自然に還ると考えられた。
方丈記では、水害・火災・竜巻といった災害が繰り返し描かれている。鴨長明が生きた時代は、まさに天変地異の連続であった。
- 安元の大火(1177):京都の三分の一が焼失
- 治承の辻風(1180):大竜巻が京都を襲う
- 養和の飢饉(1181-1182):干ばつと疫病で数万人が死亡
- 元暦の大地震(1185):京都を中心に甚大な被害
鴨長明は「水・火・風は常に害をなすが、大地は特別な変異を起こさない」と書いたが、その直後に大地震が起きたのは皮肉なことである。
こうした災厄の連続が、人々を末法思想や浄土信仰へと駆り立てていった。
本地垂迹
いま日野山の奧にあとをかくして後、南にかりの日がくしをさし出して、竹のすのこを敷き、その西に閼伽棚を作り、うちには西の垣に添へて、阿彌陀の畫像を安置したてまつりて、落日をうけて、眉間のひかりとす。
本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、日本の神々は仏や菩薩が人々を救うために姿を変えて現れたものだ、という思想である。「本地」が本来の姿(仏)、「垂迹」が仮の姿(神)を意味する。
この思想により、神道と仏教は長らく融合していた。神社の境内に寺が建てられ、寺の境内に神社が祀られることも珍しくなかった。
たとえば、天照大神の本地は大日如来、八幡神の本地は阿弥陀如来とされた。
鴨長明が方丈の庵に阿弥陀の画像を安置し、西に向けて拝んだのは浄土信仰に基づいている。
阿弥陀如来は西方極楽浄土の教主であり、西に沈む夕日を阿弥陀の光明と見立てて念仏を唱える「日想観」という修行法があった。
神仏習合は明治時代の神仏分離令(1868)まで続いた。
このとき多くの仏像が神社から撤去され、廃仏毀釈運動により貴重な文化財が失われた。
現在でも神社の中に仏教的な要素が残っている場所は多い。
我執
佛の人を教へ給ふおもむきは、ことにふれて執心なかれとなり。今草の庵を愛するもとがとす、閑寂に着するもさはりなるべし。
「我執(がしゅう)」とは、自分自身や自分の所有物に執着する心のことである。
仏教では、この執着こそが苦しみの根本原因であると説く。冒頭で述べた「諸行無常」と表裏一体の概念だ。
方丈記の終盤、鴨長明は深い自己省察を行っている。
世俗を離れ、小さな庵で静かに暮らすことを選んだはずなのに、いつの間にかその庵を愛してしまっている。静かな生活に執着してしまっている。これもまた執着ではないか、と。
この矛盾は、隠遁者の文学に共通するテーマである。
俗世を捨てたつもりでも、「捨てた」という行為への執着、「悟った」という自負への執着が生まれてしまう。
鴨長明が自らの矛盾を正直に告白したことで、方丈記は単なる隠遁賛美ではなく、人間の業の深さを描いた普遍的な作品となった。
末法思想
たゝかたはらに舌根をやとひて不請の念佛、兩三返を申してやみぬ。
末法思想とは、釈迦の死後、時代が下るにつれて仏法が衰退していくという考えである。
- 正法(しょうぼう):釈迦の教えが正しく行われ、悟りを得られる時代(500年または1000年)
- 像法(ぞうぼう):教えの形は残るが、悟りを得ることが難しくなる時代(1000年)
- 末法(まっぽう):教えのみが残り、修行しても悟れない時代(10000年)
日本では1052年から末法に入ったとされ、鴨長明の時代はまさに末法の世であった。
相次ぐ天災、飢饉、戦乱は、末法の到来を実感させるのに十分だった。
末法の世では自力での悟りは不可能であり、阿弥陀仏の力(他力)にすがるしかない。そこで広まったのが浄土信仰と念仏である。
法然は「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで誰でも極楽往生できると説き、その教えは爆発的に広まった。
鴨長明が「不請の念仏」を唱えたとあるのは、形式ばらない、心からの念仏という意味である。
厳しい修行を積まなくても、ただ念仏を唱えれば救われる——この教えは、末法の世に生きる人々にとって大きな救いであった。