チラシの裏

日記

2026年6月20日


銀行で金を下ろすために、私は外に出かけていた。雨だというのに。
雨というのは嫌いだ。もともと嫌いだったが、都会に出て一人暮らしをするようになってから、一層嫌いになった。第一に、洗濯ができない。第二に……いや、実際のところいつからなのかは知らないが、ズシリと重たくなった脳が目を圧迫しているような違和感のせいかもしれない。つまるところ、万事この頭痛が悪いのである。コンクリートの道路からは、土の匂いもしなかった。
ため息がちに目線を上げる。空の色のように退屈な、面白みのない見慣れた街並み。横断歩道の信号がちょうど赤にかわってしまったので、私はスマホを取り出した。

ぽたり。ぽたり。

傘の横から入り込んでくる雨が画面を濡らして、私はイライラしながらスマホをポケットにねじ込んだ。どこをみるともなく目線を泳がせる。行きかう車の向こう側、路地の隙間に見慣れない看板が目についた。降りしきる雨に負けるものか、と主張するように、際立っていた。
私は、その看板の魅力に取りつかれてしまった。得体のしれない高揚に身を任せて、入ったことのない路地に入った。イタリックで書かれた店名と、本日のおすすめメニューがある。メニューを見るに、ここはパスタ店のようだった。
私は傘を畳んで、店の前の傘立てに置いた。私にとっては珍しいことだった。傘を盗まれた人間は、生涯その恨みを忘れないという。私もその一人で、傘は必ず肌身離さず店に持ち込むのだが、その日に限っては、無垢で高貴な店を、水滴で汚したくない、というような気がしたのだ。
扉を押すと、冷たい空気が吹き出して、カランカラン、と小気味よい音がした。雨の憂鬱を吹き飛ばす音だ。
トテトテ、と女店員がやってきた。学生バイトだろうか、彼女は小動物的なかわいらしさを持っていた。

「いらっしゃいませ、何名様でしょうか?」

一人、と答えると、彼女に店の隅の席に案内された。お昼前だというのに、あまり客はいないようだ。しかし、その静けさが、いまの私にはたまらなく心地よかった。
メニューを開く。とはいえ、注文自体は店に入る前から決めていた。私はいつも初めての店では、その店のオススメを注文するのだ。本日のオススメである「和風きのこのパスタ」を頼もうとは考えていたが、念のためメニューに目を通す。案の定、特にめぼしいものはなかったので、いざ注文しようとしてはたと困った。
店員を呼び出すあのボタンがないのである。店員を呼び出すあのボタン──正式名称がなんなのかは知らないが──がないということは、口で店員を呼び出さないといけないわけである。私は遠慮がちに手を挙げて、「すいませーん」と言ってみたが、気づいてもらえてないようだ。かといってどうしようもないので、私は手を挙げて、さっきよりも声を張った。

「あ、すいませーん!」

今度は落ち着いた雰囲気の女店員が出てきた。やはり学生バイトのようだが、はきはきとした受け答えでしっかり者なんだろう、という印象を与える。かくして、私はようやくきのこのパスタを注文することができた。

* * *

「なっちゃん!」

小動物的な店員が、落ち着いた雰囲気の店員に声をかけた。

「キノコみたいな人来た」

なっちゃん、と呼ばれた店員は、小動物的な店員をたしなめた。

「ちょっとエリ、失礼ですよ」
「まあまあ、見てみてよ!」

エリ、と呼ばれた店員が店の隅を指さす。そこには、キノコ頭のオタクが座っていた。『エリ』が『なっちゃん』にささやく。

「店の隅にキノコ生えちゃってるよ……」

思わず吹き出すなっちゃん。こら、と言いながらエリにデコピンをする。そこに「すいませーん」と言いながら手を挙げるキノコオタク。いや、オタクキノコというべきか。

「まったく、エリに接客させたらとんでもないこと言いそうですから」

と注文を受け付けに行ったなっちゃんは、プルプルしながら帰ってきた。駆け寄ったエリに、なっちゃんは小声で言った。

「和風きのこのパスタ、だって」
「共食いじゃん!」

二人は声を殺して笑った。

* * *

店の椅子に深く腰掛ける。雨がぽたり、ぽたりとガラス窓にぶつかっては集合し、大きな水滴となって滑り落ちていく。室内から見る雨は、雨の中を歩く時よりも輝いて見えた。
困ったことに、トイレに行きたくなっていた。やたらと喉が渇いて水を一気飲みしたせいだろうか、あるいは、店の空調がやたらと肌寒いせいだろうか。窓ガラスを滑り落ちる水滴が、まるで膀胱にたまっていくように思えて、私は店内に目を向けた。
店員の姿が見えない。ということは、さっきより大きな声で店員を呼ばなければいけないということである。私はあきらめて、パスタが出てくるまで尿意を我慢することにした。
別のことを考えて気を紛らわせることにする。メニューに店名が書いてあるが、お洒落なイタリックで書かれており、読めない。だが、読めないことがむしろ、この店の無垢と、高貴さを際立たせている気がした。
無垢、高貴といえば、先ほどの店員二人にも当てはまりそうだ。あの小動物的な店員は、きっと無垢だろう。しっかりした店員は、きっと高貴に違いない。そう思うと、二人の店員が、この店を具現した妖精のように感じられてきた。

などと考えていると、今度は喉も渇いてきた。一気飲みしてしまったコップを眺めても、二、三滴の水滴しかついていない。手持ち無沙汰にコップを手に取り、机にトントンとぶつけて音を出した。静かな店内に、思ったより大きな音が響いて驚いた。同時に、自分が店員を催促してしまったような気分になって、恥ずかしくなった。
それでも店員は来なかった。私はほっとして、目をつぶって椅子にもたれかかった。

「和風キノコのパスタです」

ほどなくして、しっかりした店員が、パスタを届けてくれた。

「あ、すいません、水ください……あ、あとトイレってどこにありますか?」

* * *

「なっちゃん、いまトイレ行った人ってキノコの人?」

エリが尋ねる。

「そうね、きっと……かつての仲間のなれの果てを見て、泣いてるんじゃないかしら」

なっちゃんの酷い冗談に、ぷっ、とエリが吹き出した。

「あはは、なっちゃんそれひどいよ~!」
「ふふふ」

あ、とエリが思いつく。ねえ、なっちゃん、と小声で、

「あのキノコの人ってさ、トイレで脱いだら……下もキノコだからさ……」

とさらに酷い冗談を言う。苦笑しながらなっちゃんは、下品ですよ!と口ではたしなめているが、今度は

「用を足したあと、どっちがキノコなのか分からなくなってズボンに頭を突っ込むんですよね」

と言い返す。エリは腹を抱えてあははは、と笑い出す。

「で、ズボンのチャックを上げたら髪の毛が挟まって……」

なっちゃんはこれでもかと追い打ち。エリは過呼吸みたいにバカ笑いしている。

* * *

トイレから帰ってきた私は、パスタに手を付ける。クルクルと麺をフォークで巻き取って口に運ぶ。ふにゃふにゃした部分と、若干アルデンテというか、芯の入った部分が入り混じっている。若干冷たい部分もある。
下のほうに汁がたまっているようで、絡めながら食べる必要がある。味はしょうゆの味が結構目立つかな、という感じで、あまりパスタを食べているような気はしない。
和風キノコのパスタというものの、上のほうに四つくらいしかキノコが乗っていないようにも見える。
しばらく食べていると、なんだか油を感じるようになってきて、すこし胃にもたれだす。キノコにも油がしみ込んでいるのか、噛むとじわりと液体が染み出してすっきりしない。

あまりこれ以上は述べないが、とりあえずパスタは完食した。レジの前に立って、チラチラと店員のほうを見ていると、あの小動物的な店員がまたトテトテとやってきた。
電子マネーで支払おうとすると、電子マネーは対応していないという。小銭が足りず、すいません、と言いながら一万円札を出す。

「700円と、8000円のお返しです!」

小銭を渡されるときに、彼女の指が私の手に触れた。
店を出ると、いつの間にか空は晴れていた。

* * *

後日、私はまたあのパスタ店に行こうとしたが、いつの間にか店はなくなっていた。道を間違えたのか、あるいはあの店は、雨の憂鬱が見せた幻だったのだろうか。
それでも、ふとしたときに、雨の中で存在感を放っていた、あの看板を思い出すのだ。