AIサイボーグ・テック
2026年7月19日
大学時代の友人から、相談があると言われて、私は彼の家に向かっていた。
普段なら相談なんて面倒くさがって行かないところだ。しかし、私の大学生活の中でもかなり親しい友人であったこと、そして様子が妙に深刻であるところが、私の重い腰を軽くした。
友人のマンションについた。一見して元気そうな感じだったので、ひとまず安心した。
「まあとりあえず、これでも飲もう。」
と、彼はお酒を出してきた。なんでも、雨の味がするジンだとか。雨の味、と問い返すと、まあまあ、飲んでみればわかるから、と勧められて口にする。
飲みやすい。そして、すごい。本当に雨の味がする。
味というのは、味覚だけではなく、嗅覚も重要である、と聞いたことがある。詳しくは知らないが、美味しそうな匂いだから美味しいと感じられるし、逆に鼻が詰まっていたりすると、何を食べてもあまりおいしくない。
きっと雨の匂いを再現したものだから、このジンは雨の匂いがするのだろう。とにかく、人の五感というものは不思議なものだ。
しばらくして、ようやく友人が相談について語りだした。
「とりあえず、あまり真剣に聞かないでほしい……。自分でも半信半疑で、果たしてそんなことがあるのか判断がつかなくて……。この話のほとんどは、自分には知りようもないことで、だから、俺個人の推測だらけになるんだが……。」
と、予防線をはりまくる友人。これが、大事な相談の前にアルコールを出した意図なのだろう。彼の次の発言は、あまりにも意表をつくものだった。
「笑わないで聞いてほしいが……AIサイボーグって知ってるか?」
彼によると、どうもAIテックが秘密裏にAIサイボーグを開発し、街中に放って実証実験をしているという。AIサイボーグは、周囲の環境からビッグデータを収集しているため、歩き方が不自然らしい。
私は、彼に言われるまでもなく、話半分に聞いていた。それよりも、妙な陰謀論にはまったこの友人を助けるか、それとも適切な距離を取るかで迷っていた。
最近では、彼がAIサイボーグの存在に気付いたことを知ったAIテックが、低周波攻撃や、彼の通る道にゴミをばらまくという嫌がらせを行っているらしい。
「いや、自分でもなにか、統合失調症の妄想や幻覚みたいなことを言っているような自覚はあるんだが……これは事実なんだ。」
彼の顔は真剣そのものだった。彼の言うこと自体はめちゃくちゃだが、そこ以外には妙なところは見られない。そのことが気がかりだった。彼の眼には、正気の光があるように思えた。
「AIテックが俺のことを統合失調症の患者に仕立て上げようとしているんじゃないか……?と思っているが、確かなことはわからない。なんなら……AIテックが俺の存在に気付いているのかどうかも、知りようがないのだが……。」
彼がそこまで語ったときに、ちょうどブウウーン、という車の音が聞こえた。彼はあわてて窓際に駆け寄って、辺りを見回す。しばらくして、彼は戻ってきた。
今の音は聞こえたか、と彼に確認される。うん、と同意すると、彼は、でも車は通っていなかったんだ、と言う。たまりかねて、私は言う。
「音の反響で、別のところを通った車の音が聞こえているだけなんじゃないか?」
「わからない。でも、俺にとってはあの車の音が、とてもうるさく感じられるんだ。意図的なのか、無意識的なのかは分からない……。あるいはAIテックが俺への低周波攻撃のために、一般の車両を利用しているのかもしれない……。」
彼は苦しんでいた。哀れな彼は、その明晰な理性を残したまま、あの音に苦しめられているのだ。
いつの間にか、私は酒を飲む手も止めて、彼の発言に聞き入っていた。彼の言うことが正しいにせよ、間違っているにせよ、彼が苦しんでいることだけは本当だ。
私は彼に提案して、散歩することにした。家の中にばかりいると、気分もふさがってくるし、感覚も過敏になってしまうだろう。彼はそれに、忌々しい透明自動車の音も聞かなくてよくなるから、と付け足して、賛成してくれた。
つまらない雑談をしながら、彼と一緒に歩いていた。向こうから、黒いパーカーを着た初老の男性が歩いてきたのを見て、彼は小声で私に言った。
「あれがAIサイボーグだ。腕の振り方が規則的すぎる。」
初老の男性は、年齢を感じさせないような歩き方だった。そして、腕はピシッ、ピシッと擬音の聞こえそうな具合に、振り子のように動いていた。健康的なウォーキングのようにも見えるが、確かに奇妙なようにも感じられた。私は、妙な考えを振り払うために、頭を振って、そうかな、と返した。
さらに歩いていくと、彼は道端のゴミを指さした。
「見ろ。マクドナルドの紙袋だ。」
私にはさほど重要には思えなかったが、彼に嫌がらせをするAIテックがグローバル企業ともカルテルを結んでいるという証左らしい。
やがて、彼がよく使うという歩道橋にやってきた。ゴミが散らばっていて汚いが、マクドナルドの紙コップが落ちているのを見つけた。またマクドナルドだ、と彼は言った。
彼は続いて、反対側に落ちているゴミを指さし、これは何の包み紙かわかるか?と言う。わからない、というと、友人は
「俺もわからない。だが、これはAIカルテルが俺の知らない企業ともつながっているってことだ」
と言った。
二人で歩道橋にならんで、まばらに歩く人々を眺めた。歩く人の中には、奇妙に規則的な歩き方をする人がちらほらといた。あれもAIサイボーグか、と尋ねると、彼はそうだ、と答えた。奇妙なことに、どのAIサイボーグもパーカーを着ているようだった。彼は、もしかすると首元に充電ケーブルがあったりするのかもしれないが、分からないな、と答えた。
突然、彼があっ、と声をあげた。彼の見ている方向を向くと、遠くから、妙な男が私たちのほうを見ていた。パーカーを着ていた。妙な男は、私たちが見ているのに気づくと、何食わぬ顔で再び歩き出した。
妙な考えに取りつかれてしまった。あの日の帰り道に、道端に茶色の紙片が落ちていることに気づいたのが悪かったのだ。その紙片が、マクドナルドの紙袋の断片だと気付いたのが良くなかった。
道行く人を見ると、AIサイボーグかもしれない、という恐れが出てきて、すぐに振りさった。道端に落ちているゴミに注意を払うようになった。ゴミに注意を払う、というのは非常に不愉快な体験ではあったが、見ずにはいられなかった。
ブウウーン、という車の音が聞こえて、私はとっさに窓の外をにらみつけるように見た。車は通っていなかった。低周波攻撃だ。いかにして、私が友人の相談を聞いたことを知ったのだろうか。
分かってしまった。人は視覚だけを通して世界を認識しているのではない。五感を通して、世界を感じているのだ。その五感が、私に警鐘を鳴らしていた。
あのあと、友人は家族の勧めで精神科にかかり、妄想は寛解したそうだ。その友人の勧めで、今度は私が同じ医者にかかっているのだ。
私がそこまで語ると、その医者はふむふむ、と頷いた。私は、注意深くその医者の名札を見ていた。薬をもらって帰った後、私はその医者の名前を検索した。
私は疑り深くなっていた。友人は、ドーパミンの抑制薬で妄想が良くなったらしいが、私にはある考えが浮かび、それをぬぐえずにいた。
もしも、友人の言っていたことが真実だったとしたら?たとえば、その医者がAIサイボーグの手先で、友人の処方された薬には、記憶を都合よく改竄する成分が含まれていたのではないか?
私は、AIサイボーグが本当のことなのか、それともドーパミンによる脳内作用で引き起こされた幻覚なのか分からなくなっていた。それで、ひとまず決着をつけるためには、その医者がAIサイボーグではなく、人間であるという証拠が必要だった。
その医者の名前で検索すると、先ほどの病院のホームページが出てきた。ほかにも、精神医学関係の論文も出しているらしい。彼が生身の人間である確率が上がった。しかし、あくまで確率が上がっただけである。
疑い出すときりがないが──AIサイボーグ・テックがグローバル企業とカルテルを結ぶほど強大だとすれば、検索結果を改竄することも可能だろう。なので、私は彼の論文が乗っている論文誌を図書館に行って探すことにした。本も改竄可能なのかもしれないが、ひとまずそれで手を打つことにした。
久々に大学図書館にやってきた。妙に外装が黄ばんでいるのが気になる。最近改装したのだろうか、駐輪場だけが妙にピカピカと新しく、面白かった。手続きをして入れてもらう。
検索システムは古いままだったが、PCは新しくなっていた。前までwindowsXPだった気がするが、なんと生意気にも最新のWindows11である。
私は階段を上がり、医学誌のコーナーにやってきた。2016年7月号を手に取る。彼の名前が目次にあることに安心し、ペラペラとページをめくってみる。彼の論文のタイトルは──。
その文章が目に入ったとき、私は──全身から冷汗が吹き出した。手がぶるぶると震え、医学誌を取り落とした。めまいがした。血が逆流して、視界が赤と緑の原色に彩られた。
「本論文の執筆後、〇〇博士は急逝されました。謹んで哀悼の意を表します。」